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2011-2012年度会長報告

第3271例会 平成23年10月12日 会長報告 加藤維利会長

2011 年 10 月 19 日

加藤維利会長
 今月は職業奉仕月間と米山月間の二つの月間になっていますが、本日は米山に関する例会ですので、「財団法人ロータリー米山記念奨学会」の歴史について少し話したいと思います。

 戦後、日本のロータリーが国際ロータリーに復帰するとすぐに日本のロータリアンの中から米山梅吉翁の功績を記念してその遺徳をしのんで、何か有益な事業をしようという考えが、当時の日本のロータリーの指導者の間から持ち上がりました。太平洋戦争の反省から、平和日本を世界に理解してもらうためにアジアの国々から留学生を日本に迎え入れて、ロータリー財団の奨学事業のように、しっかりした国際奨学事業を始める事が日本のロータリーにふさわしい国際事業だという結論に達し、米山梅吉翁の功績を記念する事業は「国際奨学事業にすべきだ」と言うことで、日本のロータリー全体の活動ではなく、東京RC独自
の試みとして進められました。
 1952年(昭和27年)11月4日、「米山基金設立」の構想思案が東京RCの、時の会長、古澤丈作氏により提案されました。この構想内容は今回話しませんが、「古澤試案」はそのまま了承されました。当時この「米山基金」は「米山ファンド」とも呼ばれていました。募金は1953年4月から始められ、2年連続の寄付として会員1名、各1,000円以上、会員関係会社から1口1万円以上を募金し、総額220万円が目標であったそうです。現在に換算するとかなりの金額だったと推測されます。このときのロータリアンの熱意が伝わり、2年後には272万円が集まりました。
 「古澤試案」から2年後の1954年9月28日、米山奨学生第1号はタイのバンコクから来たソムチャード君でした。しかし、東京RCの「米山基金」による奨学制度は3名の留学生で終結しました。それは、東京RCの財源が涸渇したことが理由でした。1958年3月31日付けの決算の残高は7,918円だったそうです。東京RCはこの残金に2,082円を足して、3人目の奨学生のロイ君に対する餞別としたということです。ちなみに1960年前後の日本人の生活費は夫婦と子供1人で月平均約3万円強であったということです。
 この時期と前後して、東京RCの「米山基金」に賛同する地区が集まり、財団法人の設置を前提として、1957年1月10日に「米山奨学財団準備委員会」が招集されました。
 その後、この組織は名称を「ロータリー米山奨学委員会」と変更されました。このときの奨学生への奨学金は12,000円なので生活費としては充分だったと考えられます。
 1959年は第1回奨学生8名に対する奨学が開始された年でした。またこの年は米山奨学事業が全国に及ぶことになった年でもあります。更に1960年1月21日付けで会の名称が「ロータリー米山記念奨学会」と変更され現在に至っています。
 その後の発展は皆さんご存知の通りですが、ここしばらく寄付総額が減少してきています。留学生達の夢を叶えてあげられる日本のロータリーが誇ってよい制度であります。是非会員皆さんの寄付をお願いしまして、本日の会長報告とさせていただきます。