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2010-2011年度会長報告

第3237回例会 平成23年1月26日 会長報告 後藤 裕弘 会長

2011 年 2 月 2 日

後藤裕弘会長

 今月は「ロータリー理解推進月間」です。更に今週は、「追悼記念週間」となっています。これはロータリーの創始者であるポール・ハリスの命日が1月27日であるため、毎年この日を含む1週間を追悼記念週間としています。物故ロータリアンの冥福を祈り、生前の貢献を記念するため、1989年のRI理事会で指定しました。今日はポール・ハリスの生涯についてお話します。
 ポール・ハリスは、正式にはPaul Percy Harrisという名前で、1905年(明治元年)4月19日に米国ウィンスコンシン州ラシーン市で生まれ、父親はドラッグストアの経営者ジョージ・ハリス、母親はラシーン市副市長の娘でコーネリア・ピライアンドといい、3人兄弟の次男で、兄と妹がいました。

 ポールが3歳の頃、父の経営が行き詰まり、祖父母の住むバーモント州ウオリングフォードという田舎町で祖父母に10数年養育され、1885年、バーモント大学に入学。2年生のときに新入生をいじめたという濡れ衣を着せられ退学処分になりました。
 1887年プリンストン大学ヘ入学しましたが、祖父が亡くなったため中退し、大理石を扱う会社で1年程働きました。その後、アイオワ大学に入学することになり、行く途中でシカゴに1週間ほど滞在しました。その時、シカゴの都会生活に魅了され、将来ここで生活しようと考えました。
 1891年法学部を卒業。卒業式で先輩の弁護士が、「馬鹿になって旅行をし、新しい体験を重ねることによって、自分の人間としての幅を拡げることがとても賢明」という話をされたことに共感し、5年間と決めて、旅行しながら色々な仕事をすることにしました。
 サンフランシスコで新聞記者になり、ロスアンジェルスで商業学校の教師となり、デンバーでは俳優にもなりました。その後、またコロラド州で新聞記者になり、牧揚で働き、ホテルの事務員になり、親友となったジョージ・クラーク(ジャクソンビルRCの初代会長)の経営していた大理石・花崗岩会社のセールスマンになりました。次に、英国向けの海運会社に勤めロンドンに渡り、数多くの史跡を訪ねてまわりました。米国に戻ってオレンジの収穫と荷造りの仕事についた後、ジョージ・クラークの会社に戻りました。
 1年後、ヨーロッパヘ出張、スコットランド、アイルランド、ベルギー、イタリア等の採石場で買い付けをし、ヨーロッパ中の殆どの国々を回りました。そしてニューヨーク支店長となり都会での生活を経験しました。
 1896年、旅行と労働を計画していた5年間の体験生活期間に終止符をうち、シ力ゴに移住して法律事務所を開業しました。ある日、同業の弁護士に食事に誘われ、帰りに二人で散歩しているとき、彼は多くの商店主などと友人関係であることに気づきました。私もこの人達と知り合い、友情と親睦を促進しお互いが助け合う社交クラブを作りたいと思いました。
 1905年シルベスタ・ショール、ガスターバス・ローア、ハイランド・ショーレーの実業家とともに、職業の違う実業人のクラブを作り、その地域の仕事、職業を発展させる構想を述べ、2月23日にロータリーの最初の会合が行なわれました。
 1910年、スコットランド生まれのジーン・トムソンと結婚しましたが、お子様はおられませんでした。
 1947年(昭和22年)1月27日、64年前になりますが、心臓が悪く、長い病床について、睡眠中、静かにご逝去されました。享年78歳でした。
 ここでポール・ハリス語録から1つ紹介させて頂きます。
 ロータリーの発展の現段階において最も緊急のニーズは「もっと多くのクラブ」でも「もっと大きなクラブ」でもありません。より真実に迫る、より強力な哲学の発展です。
 ロータリーの成功を恒久化させるために必要なのは、ロータリー哲学の理想化、標準化だけではありません。ロータリーの哲学は、実際的であり、また真実でなければなりません。ロータリーは創始以来数年経過した今でさえ、その素晴らしい発展にもかかわらず、ロータリーの存在の中核を揺がすような多くの問題を提起していて、はっきりした建設的仕事の機会は極く稀だという現況なのです。(ナショナル・ロータリアン、1911年11月号)
 以上、色々な資料から抜粋した内容で、時間の都合もあり、舌足らずでお分りいただけなかったかもしれませんが、今日の会長報告とさせて頂きます。