帯広ロータリークラブ 小史

3.再開後の活動(2)

「大地と無想」

[3].奉仕の実践への10年(1971~80)

誕生以来40年、戦時中10年の中断の後、昭和26年に再発足して実に30年、この歳月は帯広クラブは、会員の充実、ロータリーの理念の追究と実践等、クラブ内外での積極的活動の推進に見るべきモノがあり、将に地区第2順位創立の大クラブとして名実ともに発展の年月であった。

 昭和47年には、クラブ拡大に意を注ぎ、昭和34年に結成されたアディショナル・クラブの帯広北ロータリークラブと協力し、両クラブの区域割譲により市内3番目のクラブとして「帯広西ロータリークラブ」を創設している。また、この頃の記録として忘れられないのは「帯広ロータリーの森」の分収造林契約の解除がある。更には第350地区1972~73年度の地区協議会の開催、帯広ローターアクトクラブの結成、研究グループ交換学生(GSE)の受入等、目覚ましい活動をしている。昭和55年には再び地区協議会のホスト、国際ロータリー75周年を記念しての「水資源問題」をテーマに、市内3クラブ合同にてパネルディスカッションを開催し多大の反響を呼び、市民の水資源への関心の盛り上がりと共に、ロータリー活動として高く評価されている。

 クラブ内においてはロータリー財団への関心が盛り上がり、ポールハリス・フェローも急速に増加し、ロータリー財団協力は4000%に達し地区内第1位となっている。

 この10年間は、第1次オイルショックによる経済的影響と共に、帯広の街づくりにおいても大型店の進出等もあり地域のロータリーへのニーズは極めて複雑・多様化していったが、これ等に対応して帯広クラブは新しい時代に応えるロータリークラブとして一層充実していっている。

[4].飛躍と地区奉仕への5年間(1981~85)

この頃では、帯広クラブ創立50周年を迎える年として、特に1985年までの5年間についてふりかえってみる。

photo 最初に特筆されるべきは、昭和57年2月に帯広市開基100年、市制施行50年にあたり、ロータリーの記念事業として、帯広市内3ロータリークラブの合同企画による大ブロンズ像「大地と夢想」を100年記念館前庭に寄贈設置している。この時に、ロータリー創立100年の2005年に向かって3クラブ全員のメッセージをタイムカプセルにして埋設した。国際奉仕関連として、第250地区第4回研究グループ交換(GSE)事業に団員を送り出し多大の協力をしており、ロータリー財団奨学生の派遣、第3回ライラーのホスト等多方面にわたり積極的活動をしている。この第3回ライラーセミナーは帯広市緑ヶ丘児童会館にて140名の参加のもとに多大の感動・感激のうちに成功裏に終了し今も多くの語り草になっている。
1980~81年度第250地区ガバナーに前年度会長の西川義正が選出され、地区幹事田中弘他地区役員協力のもとに地区運営に功績を残している。

photo 昭和59年には会員数も初めて100名を越え名実共に大クラブとして成長していった。同時にロータリー財団協力も依然、地区第1位を誇り、米山記念奨学会への協力も最高位を維持している。
次に、昭和60年に最大事業として行われた帯広クラブ創立50周年記念事業について記しておく。昭和10年創立の帯広ロータリークラブは満50年を迎え、この年3月15日、会員総力を結集して、創立50周年記念式典を地区内外ロータリアン、家族340名参加のもとに盛大に開催された。

photo 本式典は、田中弘実行委員長、栗山篤二会長のもと、1年余に及ぶ周到な準備のもとに極めて盛大に且つ意義深く開催され、参加者一同に多大の感銘を与えた。将に「年々歳々花相似たり、歳々年々人同じからず」の通り、50年前の先人の労苦を偲び、来し方の変遷を思い万感胸に迫る感動の式典であった。特別ゲストとしては、元国際ロータリーの理事、松平一郎及び日本ロータリーの大先輩達、パストガバナー安野譲次(一宮RC)を迎えて、両名の特別講演会を催し、また記念事業としては当時のNHKチーフアナウンサーの鈴木健二氏を招き、市民参加のもとに、「暮らしの再発見」と題しての市民文化講演会を開催している。当日は市民会館にロータリアン・家族並びに一般市民約1500人集まり約2時間余にわたる鈴木アナウンサーのお話しに感涙溢れ大変な感動あふれるすばらしいひとときを持つことが出来た。この特別記念行事は、帯広の地域住民にひろくロータリークラブを知らしめると共に極めて有意義な文化活動となることが出来た。

[5].激動期のロータリーの奉仕活動(1986~95)

21世紀を目前にしてのこの10年間は、ロータリーにとっても大きな変革を迎える年であった。1987年頃は、まだ暗闇のムードの中にあった日本経済も、1988年頃から景気の急上昇がみられ出した。土地や株価の上昇で資産価値が上がり、円高メリットや政府の内需拡大等で、将しく国民はすべて中産階級意識を抱いた。しかし、1990年、過剰生産や設備投資、世界的経済の流れの中で、日本をとりまく経済環境も、所謂、バブル経済の崩壊とともに大きく変化し、国民は不況の辛酸をなめることとなった。1994年に入って漸く不況からの脱却がみられ、経済全般にわたって先々に一つの光を見いだすことになった。また一方、昭和天皇が崩御し、昭和時代の終焉を迎え、新たに平成と改元された。世界各地でも大きな変動が起こり、ソ連国を中心とした共産圏の自由化と共に、日本に於いても日米経済摩擦を初め、日本企業は国際化時代に突入し、内外激動の10年であった。そのような時代背景の中で、ロータリーにあっても共産圏諸国でのロータリークラブの復活・誕生がみられ、ロータリーも大きく変貌をとげんとしている。帯広ロータリクラブは2500地区内の重鎮クラブとして、正しいロータリーの奉仕の理念に基づき、営々と良き社会を築き、世界の真の平和を願いながら、奉仕活動の実践を着実に行って来ている。

例えば、例会運営の改善による剰余金を難民救済に、或いはロータリー財団、米山記念奨学会への協力、確実に進む高齢化対策や青少年育成への活動など、地道に多岐に亘り奉仕活動を行ってきた。一方、1991~92年度には、国際ロータリー第2500地区ガバナーとして、当クラブ最古参の田中弘会員を送り、ロータリーの識者として、豊富な経験と活動力をもって、大いに活躍し、帯広ロータリークラブの期待に添えるものがあった。

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